交わらない議論
今、知恵袋で信徒の方から質問を受けています。
その質問←クリックすると開きます。
実際の質問はこれ↓
私が以前、別質問に書いた回答で
”「仏教の概念で因縁を絶つという概念は無い、輪廻転生から解脱する。」ということはあります。”
と書いたのですが、信徒の方から「あなた(緋色)の解脱の解釈とはなんですか?(要約)」
との質問でした。
この方は実は複数の苑を肯定する内容の知恵ノートを書いています。
ノートの内容も要約すれば、仏教系の解説本等から引用し、その引用を基に、
「だからこそ”おたすけ”も”歓喜”も正しい。そして苑は正しく仏教を継承している(要約)。」
と言う内容です。
部分的にそれはどうなのよ?こじつけでしょ?とは思う部分もありますが、アンチの立場からみても決して書いている内容(仏教の用語の解釈としては)はさほど間違っているものではありません。
今回の質問で彼が引用している本からの解脱の解釈の引用文も決して間違ったものではありませんし、私もほぼ同様な認識です。
しかし、だからといって、苑が正しい、苑は良いというものではありません。
ハード面の穴、、、、
・杜撰な入信手続、負担にならない年会費
・ぱっとみわからない入信書式
・智流学院、霊位に必要な勧誘数
・接心などでの、おたすけの奨励
・因縁が切れない、苑でしか切れない、因縁を餌にする方法
・守ってもらっていると信じ込ませる環境
・本人に行かない請求書
・人数のわりに少ない教えられる人数
・苑をあげての無断入信などの改善、注意勧告、厳罰などの実施が無い。
や、過剰な信仰、依存を持つに信徒が至る工程を肯定できるものではありません。
注:この工程は苑という存在無しに成立しません。
以下は、マルチ商法での勧誘の流れですが、彼(女?)の理屈は要するにこれです。
---例文―--
ある場所で、ある会社の営業マンがプレゼンをしています。
そして、かれはこう言いました。
「うちの会社のこの製品は伝統的なデザインを有している大変素晴らしい製品です。それに会社の創始者は某大手メーカーに居ました。某大手の後を継ぐのは当社しかない!私はそう思っています。しかもこの手のビジネスモデルを業界でいち早く作ったのもうちの創始者です。」
↑ここまでがこの信徒の知恵ノートでの理屈
↓ここから先がアンチの否定する実態
「そこで!この素晴らしい商品の売り方なんですけど、あなたに買う人を探してもらって、この製品を宣伝してください。売れればあなたにキックバックが入りますし、買ってくれた人がさらに別な人に売れればさらにキックバックが入ります!。良い商品ですから相手のためにもなります!」
と営業マンはこんな感じで言います。
しかし、実際はマルチの場合は売れても売れなくても、営業時のカタログなどの商材は自分で購入しなくてはならないのです。
説明の場を設けたり、売るまでに結構細かくお金がかかります。
ですので、買ってくれる子を数多く確保できなければ失敗し儲かりません。
販売実績の無い子に対して親がなんていうかご存知でしょうか?
「あなたの販売努力が足りない。」
「製品への愛が足りない。」
「良い製品だから必ず売れる。」
と言うのです。
しかし、それで家計が破たんしても、売るために周りに迷惑をかけてもこの会社は一切責任を取りません。
親はこう言うはずです。
「販売する努力が足りなかったんですよ。売り方を理解してなかったんじゃないですか?」
「当人が悪いんです。」
という理屈だからです。
数々の成功談をしてあれだけ盛り上げて、努力をすること要求したうえにです。
そのころには親戚にも親にも友達にも煙たがれられていてマルチ関係の人間関係しか持っていないはずです。
従って、
苑の正しさ、素晴らしさを論じて被害が減るわけがなく、アンチの苑を否定する心を消すことはできません。
本流だということが、実際に被害を受けた身に何が通じるというのでしょうか?
いくら本流と唱えたところで、批判を止めるわけがありません。
「そうか、、本流か、、、批判するのは間違ってた、うん、苑は素晴らしい。」
そんなことを言える訳がありません。
今、勧誘を受けている人に向かって、「仏教の本流で解釈も間違っていないけれど、こんなトラブルもあるよ。」なんて書けるわけがありません。
本当に何故、信徒はアンチの書く”被害”に目を向けてくれないのでしょうか?
例え教えがどんなに仏教に基づくもので良いものでも、それでまわりが不幸になる原因になったり、誘発するなら、そんなものは一切衆生を救う仏教ではありません。
というより宗教ですらありません。
その人が歩み方を間違えているで済む問題ではありません。
亡くなった子供が信徒の苦しみをうけ、今も信徒を守るなんて解釈はありません。
因縁を絶つ、ましてや苑でなければ因縁は切れないとうそぶく信徒の行為を、それを管理もせず、ハード面の穴を改善もしない苑を肯定するものではありません。
要するにこの方は「苑は正しい、教えを理解していない人が悪い。」ご大層に引用を引き出しても、よく信徒が使う理屈となんら変わらず、その言葉に重みも何も感じません。
感じるのは、気持ちの悪さだけです。
「ああぁこの人も盲信しているんだ。」という絶望感と、こんな人を家族、知人に持った場合、どう対応していけば良いのだろう?
考えこんでしまいます。
そんな方へ信徒はこのような考え方なのだと知らしめるのがこのブログの役目だと思います。
もし、同様なことを言われた方へ
程度の差こそあれ、各団体で解釈が違うのは仕方がないことです。
しかし、自分のところは力がある、正しい、と主張するような団体は信じるべきではありません。
「あー、そーなんだー、へー、でも興味ないやぁ。」で聞き流したほうが身のためです。
実際はこやって理屈づけて反論すると、あさっての方向から反論が始まり堂々巡りになり大変精神的なエネルギーを使うことになります。
興味を持たない、関わらない。
それが一番まわりにもご本人にも負担のかからない方法です。
いつも書きますが、新興宗教は過剰な信仰、依存心を持つ信徒が発生しやすく、それは当人、まわり、苑、それぞれに原因があります。
ならばそんな危険にあえて飛び込む必要もなく、また当人が真摯に信仰しても、おたすけという要するに勧誘しなさいという教義がある以上、勧誘をすることになります。
勧誘した結果、相手の家庭や相手を不幸にしても、「教えを理解していなかったから。」で済む問題ではありません。
相手を不幸にした場合、どうやってあなたは責任を取るのですか?
できないはずです。
ならばやっぱり、限度の無い信仰、依存を持つ可能性のあるものに接するべきではありません。
おっと話が逸れました。
要するに議論の主題がどうであれ、盲信している方とは議論がしにくいということです。
いいなぁ、向こうは信仰に逃げれるから。
困ったら苑にすがれば良いのですから。
その質問←クリックすると開きます。
実際の質問はこれ↓
私が以前、別質問に書いた回答で
”「仏教の概念で因縁を絶つという概念は無い、輪廻転生から解脱する。」ということはあります。”
と書いたのですが、信徒の方から「あなた(緋色)の解脱の解釈とはなんですか?(要約)」
との質問でした。
この方は実は複数の苑を肯定する内容の知恵ノートを書いています。
ノートの内容も要約すれば、仏教系の解説本等から引用し、その引用を基に、
「だからこそ”おたすけ”も”歓喜”も正しい。そして苑は正しく仏教を継承している(要約)。」
と言う内容です。
部分的にそれはどうなのよ?こじつけでしょ?とは思う部分もありますが、アンチの立場からみても決して書いている内容(仏教の用語の解釈としては)はさほど間違っているものではありません。
今回の質問で彼が引用している本からの解脱の解釈の引用文も決して間違ったものではありませんし、私もほぼ同様な認識です。
しかし、だからといって、苑が正しい、苑は良いというものではありません。
ハード面の穴、、、、
・杜撰な入信手続、負担にならない年会費
・ぱっとみわからない入信書式
・智流学院、霊位に必要な勧誘数
・接心などでの、おたすけの奨励
・因縁が切れない、苑でしか切れない、因縁を餌にする方法
・守ってもらっていると信じ込ませる環境
・本人に行かない請求書
・人数のわりに少ない教えられる人数
・苑をあげての無断入信などの改善、注意勧告、厳罰などの実施が無い。
や、過剰な信仰、依存を持つに信徒が至る工程を肯定できるものではありません。
注:この工程は苑という存在無しに成立しません。
以下は、マルチ商法での勧誘の流れですが、彼(女?)の理屈は要するにこれです。
---例文―--
ある場所で、ある会社の営業マンがプレゼンをしています。
そして、かれはこう言いました。
「うちの会社のこの製品は伝統的なデザインを有している大変素晴らしい製品です。それに会社の創始者は某大手メーカーに居ました。某大手の後を継ぐのは当社しかない!私はそう思っています。しかもこの手のビジネスモデルを業界でいち早く作ったのもうちの創始者です。」
↑ここまでがこの信徒の知恵ノートでの理屈
↓ここから先がアンチの否定する実態
「そこで!この素晴らしい商品の売り方なんですけど、あなたに買う人を探してもらって、この製品を宣伝してください。売れればあなたにキックバックが入りますし、買ってくれた人がさらに別な人に売れればさらにキックバックが入ります!。良い商品ですから相手のためにもなります!」
と営業マンはこんな感じで言います。
しかし、実際はマルチの場合は売れても売れなくても、営業時のカタログなどの商材は自分で購入しなくてはならないのです。
説明の場を設けたり、売るまでに結構細かくお金がかかります。
ですので、買ってくれる子を数多く確保できなければ失敗し儲かりません。
販売実績の無い子に対して親がなんていうかご存知でしょうか?
「あなたの販売努力が足りない。」
「製品への愛が足りない。」
「良い製品だから必ず売れる。」
と言うのです。
しかし、それで家計が破たんしても、売るために周りに迷惑をかけてもこの会社は一切責任を取りません。
親はこう言うはずです。
「販売する努力が足りなかったんですよ。売り方を理解してなかったんじゃないですか?」
「当人が悪いんです。」
という理屈だからです。
数々の成功談をしてあれだけ盛り上げて、努力をすること要求したうえにです。
そのころには親戚にも親にも友達にも煙たがれられていてマルチ関係の人間関係しか持っていないはずです。
従って、
苑の正しさ、素晴らしさを論じて被害が減るわけがなく、アンチの苑を否定する心を消すことはできません。
本流だということが、実際に被害を受けた身に何が通じるというのでしょうか?
いくら本流と唱えたところで、批判を止めるわけがありません。
「そうか、、本流か、、、批判するのは間違ってた、うん、苑は素晴らしい。」
そんなことを言える訳がありません。
今、勧誘を受けている人に向かって、「仏教の本流で解釈も間違っていないけれど、こんなトラブルもあるよ。」なんて書けるわけがありません。
本当に何故、信徒はアンチの書く”被害”に目を向けてくれないのでしょうか?
例え教えがどんなに仏教に基づくもので良いものでも、それでまわりが不幸になる原因になったり、誘発するなら、そんなものは一切衆生を救う仏教ではありません。
というより宗教ですらありません。
その人が歩み方を間違えているで済む問題ではありません。
亡くなった子供が信徒の苦しみをうけ、今も信徒を守るなんて解釈はありません。
因縁を絶つ、ましてや苑でなければ因縁は切れないとうそぶく信徒の行為を、それを管理もせず、ハード面の穴を改善もしない苑を肯定するものではありません。
要するにこの方は「苑は正しい、教えを理解していない人が悪い。」ご大層に引用を引き出しても、よく信徒が使う理屈となんら変わらず、その言葉に重みも何も感じません。
感じるのは、気持ちの悪さだけです。
「ああぁこの人も盲信しているんだ。」という絶望感と、こんな人を家族、知人に持った場合、どう対応していけば良いのだろう?
考えこんでしまいます。
そんな方へ信徒はこのような考え方なのだと知らしめるのがこのブログの役目だと思います。
もし、同様なことを言われた方へ
程度の差こそあれ、各団体で解釈が違うのは仕方がないことです。
しかし、自分のところは力がある、正しい、と主張するような団体は信じるべきではありません。
「あー、そーなんだー、へー、でも興味ないやぁ。」で聞き流したほうが身のためです。
実際はこやって理屈づけて反論すると、あさっての方向から反論が始まり堂々巡りになり大変精神的なエネルギーを使うことになります。
興味を持たない、関わらない。
それが一番まわりにもご本人にも負担のかからない方法です。
いつも書きますが、新興宗教は過剰な信仰、依存心を持つ信徒が発生しやすく、それは当人、まわり、苑、それぞれに原因があります。
ならばそんな危険にあえて飛び込む必要もなく、また当人が真摯に信仰しても、おたすけという要するに勧誘しなさいという教義がある以上、勧誘をすることになります。
勧誘した結果、相手の家庭や相手を不幸にしても、「教えを理解していなかったから。」で済む問題ではありません。
相手を不幸にした場合、どうやってあなたは責任を取るのですか?
できないはずです。
ならばやっぱり、限度の無い信仰、依存を持つ可能性のあるものに接するべきではありません。
おっと話が逸れました。
要するに議論の主題がどうであれ、盲信している方とは議論がしにくいということです。
いいなぁ、向こうは信仰に逃げれるから。
困ったら苑にすがれば良いのですから。
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